読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

獣医師ライター、明石のブログ

獣医師ライターというちょっと珍しいフリーランスが日々の出来事、仕事では書けないような私事を綴っています

頑張って書いた文章を友人にこき下ろされた話をする

考えていること

【スポンサーリンク】

「センスないね」

 

 

 

対面に座った友人は手に持っていた紙を置いてそう言った。そして、続けざまにもう一言、「向いてないんじゃない、この分野」

 

 

 

 

まるで少年誌の編集長が若手の漫画家をバッサリ切り捨てるような小気味いい台詞だ。実際、その例えから遠いわけでもなく、彼には私が書いてエッセイ風の文章を読んでもらって、感想を受け取っている状態だった。

 

私は9月いっぱいで勤め人を辞め、10月からは「フリーライター」として働いてきた。とはいっても、フリーライターなんて自身で名乗ればその日からあなたもそうであるように、特別な職業ではない。重要なのは何を成したか、である。

 

ライター、と聞いてどんな職業を思い浮かべるだろうか?多くの人は新聞やweb上に掲載されるエッセイやオピニオン風の記事を執筆する仕事と考えるのではないだろうか。

 

私もフリーライターになる前はそんな程度のイメージしかなく、そうなってみたい、という願望しかなかった。

 

エッセイなどを書いてバズを起こし、注目を浴びる、というのは多くの人が憧れることだ。ライターとしても、そのような仕事で食べていければ最高だ。まさに、富も名誉も得られるような理想的な状態であると言えるかもしれない。

 

ブログを日常的に書いている人ならよくわかると思うが、自身が書いた記事が賞賛され、拡散されると、とてつもない快感が生じる。それはまるで麻薬のようなものだ。

 

多くの人に共感される記事を書きたい、では共感を呼べる記事とはどんな文章なのだろう、と私は考えた。

 

 

 

 

世の中には様々なジャンルの記事がある。それは、毎日の暮らしに役立つ情報が記載された記事であったり、グルメレポート風の記事であったりと多種多様だ。

 

その中でも、読者の心に響きやすい文章、つまり共感を呼びやすい文章があると私は考えている。それがエッセイやオピニオン系の記事である。

 

なら、それらを執筆できるようになろうと思い、実際に書いた文章を添削してもらうつもりで友人に読んでもらった。その感想がこの記事の一番最初に載せたものだ。

 

なかなか容赦ない感想である。そこまで言わなくても・・・と思うかもしれない。ただ、私は薄々自分自身でもそういったジャンルの文章が苦手なことに気づいていた。

 

 

 

エッセイにおいて心が惹きつけられる文章とは、筆者自身が心の底から思っていること、それをありのまま言葉にしたものだ。

 

飾りっ気のないその文章には、自然と他人の心を揺らす何かが宿る。言葉によって、無意識に考えていたことが表面化してくるような、そんな感覚を覚える。上手く言葉にできない思いを誰かが代弁してくれた、これがたくさんの人が感動し、思わずコメントしたくなるエッセイではないかと思うのだ。

 

オピニオン記事においても同様で、余計な修飾がないからより尖ったものになり、心に突き刺さる内容になるのだと思う。

 

しかし、私はそれができない。気持ちをそのまま言葉にするという変換作業が圧倒的に下手なのだ。

 

私が書いた文章はまるで重厚な甲冑や鎧を身にまとい、姿かたちはおろか、性別すらもわからなくなった騎士のようだ。

 

要は、私は必要以上に文章を着飾ってしまうらしい。少しでも良く見えるように、また、余計な波風が立たないように極限まで柔らかい言い回しにしたり。

 

そうしてできあがった文章からは、もはや私の意志は読み取れない。笑ってしまいそうになるが、自分でも文章を通して何が言いたいのかわからないのだ。書いた本人ですら理解できないものを、誰が理解できるというのだろう。

 

この理由は私の性格からきているのではないかと思う。私は良くいえば八方美人な性格だ。誰からも好かれるように振る舞ってきたし、他人からどう見られているかを常に気にして生きてきた。

 

こういった内面がそのまま文章にも表れてしまうのだろう。ネット上のほぼ匿名に近い状態でも自分を晒け出せないなんて、どれだけ臆病な性格なんだろうか。

 

友人の「この分野向いてないよ」という言葉はこれ以上ない的確なものに思えた。

 

 

 

 

 

 

 

最近はありがたいことにセールスレターなど、コピーライティング系の仕事を多く頂けるようになってきた。コピーライティングはある意味、ガチガチに理論で固めた文章作成で、私の理系脳とマッチしているのか執筆がとても楽しい。

 

もし、友人に私のエッセイをこき下ろされなかったら、今でもその分野でもがき苦しんでいたのかもしれない。そういった意味では友人に感謝、ということになるのだろうか。